明日で20年ですね・・・

カテゴリー │■ 絵本■ 『わたし。』

こんにちは お茶の西村です


明日で 阪神淡路大震災から 20年になりますね。


この時期の読み聞かせに必ず読む本があることを
何回かこのブログでも書かせていただきました。
明日で20年ですね・・・
お写真お借りいたしました
はるかのひまわり 


双葉 2010年 はるかのひまわり http://nisimura.hamazo.tv/e2217474.html
双葉 2012年 はるかのひまわり http://nisimura.hamazo.tv/e3419277.html
双葉 2013年 はるかのひまわり http://nisimura.hamazo.tv/e4174678.html


自宅の1階で寝ていて 亡くなってしまった 加藤はるかさん
2階で寝ていて 一命を取りとめた お姉さんの いつかさん

お姉さんの気持ちが とてもよくわかる本なのですが
最近、お姉さんからのメッセージを読むことが出来ましたので
ご紹介します。
(日にち的に、少し前の物だと思いますが・・・)







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加藤いつかさんのメッセージ


1995年1月17日、午前5時46分に
阪神淡路大震災が私の街、神戸を襲いました。
それから8年・・・・。
震災で大切な人を失った人達にとっては、
長いような短いような月日・・・

震災当時、我が家は4人家族。
私は15歳で、中学3年生。
妹は11歳で小学6年生。
両親と暮らしていました。
あの朝、私は2階で、妹は1階で寝ていました。
妹だけが家具の下敷きになり亡くなりました。
震災での妹の「死」により、私達家族の暮らしは大きく変わってしまいました。

母は、亡くなった妹を思い、毎日の様に泣き暮らし、
父は対照的に、ただ無言で仕事に逃げているように見えました。
私は「自分がしっかりして、両親を守らなければ」と変な責任感に駆られて、
両親の前では泣くこともできず、感情を押し殺していました。

しかし、時間の経過とともに、いつまでも泣いて私の方を全然見てくれない母親に対して
「もっと生きている私の方を見て欲しい」という気持ちを持つようになりました。

先に死んでしまった妹に嫉妬さえ覚えました。

そんな気持ちになっていた私に少しづつ変化が出てきたのは、
亡くなった妹「はるか」を通して出会った人達がいたからです。
きっかけは、一輪の「ひまわり」でした。

震災の年の夏、妹が亡くなった場所に一輪の大きな「ひまわり」が咲きました。
それは、生前に妹が可愛がっていた隣の家のオウムの餌だった
「ひまわり」の種から咲いた花でした。
その後、、その場所にたくさんの「ひまわり」が咲きました。
地域の人達は、その花の種を集め、それを「はるかのひまわり」と名付けて
毎年、絶えることなく植え続けてくれています。

「はるかのひまわり」は、私にたくさんの出会いを作ってくれました。
同じ震災を経験した人達の中で、私は自然と肩の力が抜け、
当たり前に泣くことができるようになりました。
みんな、抱えきれないくらいの悲しみを抱えながら、少しでも明るく生きようとしている。
自分ひとりだけが悲しくてつらいんじゃない。
そう思えるようになりました。

今私は「1.17希望の灯り」というボランティアグループで、
震災を通じて命の大切さを伝えていく活動をしています。
私は語り部として
「目に見える神戸の街は元気を取り戻したように見えるけど
『まだまだ心に悲しみを抱えている人達がいる』
ということを忘れないで」
と伝えています。

震災を語ることは私にとって、妹の死をしっかり受け止めて、
私自身が前を向いて生きて行くために大切な事なのです。
失った人は戻ってこないけど
「ちゃんと一生懸命生きたよ」
そう伝える事ができるのは残された私たちしかできないのだから・・・

最後に、今日、成人式を迎えるはずだった妹「はるか」に
「たくさんの出会いをありがとう」といいたいです。


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改めて
はるかさんはじめ この震災で命を絶たれてしまった すべての方の
ご冥福をお祈りいたします・・・




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