子どもたちが積雲院で お墓参り

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お茶の西村です。

これ 下 先日 5/22 の新聞。

子どもたちが積雲院で お墓参り


岐阜の大垣にある 青墓(あおはか)小学校という小学校が、地元の三川(みつかわ)小学校と 23年間 交流を続けている という記事なんですけどね
子どもたちが積雲院で お墓参り

なぜ はるばる 岐阜から訪ねて来てくれるのかというと…
答えは『お墓参り』

子どもたちは お墓参りに来てくれるんです。



この記事にある お寺 『積雲院(せきうんいん)』には、あの鎌倉幕府をつくったという 源頼朝の兄 源朝長(ともなが) という方のお墓があるんです。

しかも 祀られているのは、首から上だけ…。



なぜ首から上だけ? と思うでしょ?

首から上だけが祀られているのには こんなお話しがあるんです。



平治の乱に敗れた 源 義朝は、息子達(長男 義平・次男 朝長・三男 頼朝 他・・・)を連れて、命からがら 美濃の国へと くだります。
途中、次男 朝長は 敵に 左股を矢で射抜かれ、重い傷を負ってしまいます。

岐阜の青墓(あおはか)の宿に着いた一行は、仲間を求めるため、長男 義平は北陸道を、 次男 朝長は中仙道を、そして 自らは 東海道を行く作戦に出るのです。

しかし…
朝長の傷は 悪化。
“このままでは、敵に捕らえられ あわれな思いをする”と考えた 朝長は 父親に頼み自害する事を 選びます。

この朝長の亡骸は、青墓にある宿の者が ねんごろに裏の竹藪に葬った…
はずだったのですが、なんと 後を追って来た 平氏の武将 平宗清が、この墓を掘り起こし 朝長の首を京に持ち帰って 平清盛に見参。
朝長の首は、京都 六条河原で さらし首となってしまうのです。

これを知った 朝長の乳人役だった 大谷の忠太(おおやのちゅうた)が、六条河原にさらされた 主人の首を、ひそかに ひそかに 郷里の地(ここ 三川)へ持ち帰り 葬った。

葬った先が この 積雲院…。



という お話し。

この積雲院は、源 頼朝が兄を供養するために建てた寺 とされ、友永という地名も この朝長からつけられた とされているそう。
そして、私達が住む ここ 大谷も、この大谷の忠太 という方からつけられたものなんだそうで…。




おわかり頂けましたか?

そう。
なので 首から下が葬られている 岐阜県大垣市の青墓から、青墓小学校の子どもたちが 1年に1度 この三川を訪ねてくれて、お墓参りをしてくれるんですね。

そして 秋には 三川小学校の子どもたちが、青墓小学校へ出かけ お墓参りをしてきます。


こんな交流が 23年も続いているって、すごい事だと思いませんか?


もちろん 我が家の子どもたちも 全員学習済み。鉛筆

自分の地区に、こんなお話しが残っているって すごい事だと思うし それを こんな形で 学習できるって言う事も、とても貴重だと思うんですよ。


三川って 確かに田舎です汗
でも こういう事ができちゃう ここ 三川地区が 私は大好きです にっこり








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西村農園のお茶は こんな三川でつくられております (o^▽^)o




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